万葉の時代より立山は「神々が宿る山」とされ、富士山や白山と並ぶ「日本三霊山」として、山岳信仰の対象になっていました。人々は、山に立ち入ることを慎み、山麓に社を設けて拝み見ていました。国守として越中に赴任してきた歌人、大伴家持が詠んだ「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」をはじめ、「万葉集」に収められた数々の歌の中からも、昔人が立山連峰から感じていた神々しさが伝わってきます。
やがて平安時代になり、仏教が日本の社会に広まると、立山には仏教の山としての意義が加わるようになりました。天台密教や浄土教の影響を受けながら雄山神社を基軸に、神と仏を渾然一体とした独特の信仰体系を確立した立山は、修験道の一大興隆地として脚光を浴びるようになります。当時、人々は白衣にすげ笠、わらじ履き、金剛杖という出で立ちで、精神を統一ののち真理を体得する[立山禅定]を行ったといいます。熱湯噴き出す地獄谷に奈落の世界を見て、安寧待つ極楽浄土に夢を馳せたのです。
江戸時代になると、加賀藩は立山信仰を厚く保護し、峰本社の修理・造営、山中の宿泊施設や橋の架け替えなどを積極的に行いました。また、岩峅寺や芦峅寺の人々は全国に出向き、「禅定」と呼ばれる立山信仰を広める活動を行うようになります。その際に紹介したのが、地獄や極楽、立山開山の伝説が描かれた「立山曼荼羅」です。
立山曼荼羅により立山信仰が全国に広まると、遠方から沢山の人々が立山を目指して集まるようになり、岩峅寺や芦峅寺は、そんな人々の泊まる宿坊の町としても栄えるようになりました。
立山は江戸時代まで女人禁制の地とされ、女性の立山登拝は禁止されていました。
その為、女性が生前の罪や穢れを浄化し、死後の極楽往生が約束される儀式として「布橋灌頂会」が行われるようになりました。
「この世」の閻魔堂から布橋を渡って「あの世」である姥堂に入り、再び布橋を渡って「この世」に戻る疑似再生の儀式です。
明治時代以降、廃仏毀釈の煽りを受けてこの儀式は廃れました。しかし平成8年、136年ぶりに再現され復活すると、その後は継続的に開催されるようになり、平成23年には公益財団法人日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に富山県内で初めて登録されました。今では"心の癒しの儀式"として定着しています。
明治維新を契機に新政府が発した神仏分離令によって廃仏毀釈の気運が高まると、全国各地で仏教施設や仏具などが破壊・焼却されるようになりました。神と仏を渾然一体としていた立山信仰は根本を激しく揺さぶられ、登拝者は激減。立山における宗教色は、一気に薄れていきました。
立山権現の称号の廃止、仏像・仏具の散逸、さらに、擬死再生の儀式である布橋大灌頂や、芦峅衆徒による全国各地への布教活動廃絶など。
これらをきっかけとして、立山は僧の手を離れ、かわりに目の前に広がる雄大な景観をあるがままに体感しようという気運が生まれました。加賀藩により通行を禁止されていたルートが解禁され、明治5年3月には女人禁制も解かれました。
日本はもちろん、イギリスなど外国からも登山愛好家が次々と足を踏み入れ、スポーツとしての立山登山が活発に行われるようになりました。